承認欲求
- 2025年7月6日
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更新日:3月23日

誰しも寂しかったり楽しかったり、周りの人たちと過ごす日々の中で、人に認めてもらいながら社会生活をしている。認めてもらうことが最終的なゴールではないのだが、何故かそうやって忙しい日々である。心理学者アブラハム・マズローの5段階欲求で言えば、4段階目に承認欲求というレベルがある。承認欲求は英語ではEsteemといい、ApproveやAcceptと違い、自分の能力や性格を自分も含めて人から尊敬されたい欲望である。この欲求をクリアして最終5段階目の自己実現を達成するというのが、彼が説いている欲の階層だ。
ただ、悪いことと知りながらSNSで注目されたいために迷惑行為を投稿する人や、会社や学校で自分を認めてないと思う人に精神的苦痛を与え仲間はずれにする所謂イジメやハラスメントをする人たちは承認欲求のレベルに到達していない。もともと尊敬に値しない無知で無能な欲望で他者の気を引きたい親和欲求と呼ばれている。承認欲求を肯定してみる。私は違うんだ、他人から評価されたい、尊敬されたい。別に他人のことは評価したくないが、自分で自分は特別な何かになり得るのではないかというきっかけがほしい。世の中で成長するためにはものすごく大切なステップである。しかし例えば、タレントやら落語家が専門以外の根拠の無い評論をしたり、「何事にも感謝を忘れない。」と好き勝手しているスポーツ選手がインタビューに答えたり、「最近怒りをマネージメントできる。」と人間の情動すら軽んじたり、「この人達の思いを紡ぐ。」とか共感ぶった同情を被災地で報道したり、「あなたはもっとこうすべきだ。」と説教した挙げ句食事は奢ってもらったり、つまり「自分は世の中で認められて当然な存在である。」と自分の正義に酔いしれるのはどうなんだ。そんな”うぬぼれ”が承認欲求の裏には隠れてないだろうか。周りの人からの共感を期待し善人と思われたい。そんな恥も知らない。自分の存在を他人に依存しているとも気づかない厄介な人生の登竜門なのであろうか。
彼は少年期、親や学校の先生から優等生と思われたかった。バンドをやっていた頃は、とにかく女性からかっこいいと思われたかった。サラリーマンになってからは、上司や取引先から信頼され認められそうなことばかり考えていた。表層ばかり追いかけて、学業や音楽や仕事そのものにはさほど身が入らなかったそうだ。狭い鮨屋で磨りガラスの引き戸越しの昼の光リに透き通る赤ワインを見つめながら彼は「これは情けない自分です。」と当時のうぬぼれに呆れている様子だった。そう、寿司に赤ワインは合わない。思えば、50歳を過ぎた今になって中途半端な半世紀だったと話題をループさせながら長い話が続いた。筆者の方を向かず、カウンターの奥をみながら自分の価値を探っているようだった。ため息の後彼は「おまえの夢はいったい何だ?」と自分自身に問うと、言葉に詰まった。20秒くらい無言の時間の後、「昔は他人に依存していたとはいえ、具体的に認められたい自分像があった。今は何も無い。虚しい。」下を向きながら水の中で目を開けたように視界が潤んだのか、大きな涙がカウンターに落ちた。「そんなバカな。そんなに悲しい話をしたい訳ではなかったはずなのに。俺は何をやっている。」とおしぼりで涙を拭いた。彼はずーっと他人に依存してきた自分が情けなかった。少し飲み過ぎたか。大きな肩に手をやると、思いがけない一言を言った。「こんな俺でも自己実現できますかね?」
心理学者アルフレッド・アドラーは「他者の期待を満たすために生きてはならない。」と承認欲求をきっぱり否定し、自由のために手放すことを推奨していた。つまり対他関係は他者からの評価に頼ることではなく、自らの他者に対する貢献こそが健全であるとしている。とても辛辣で「ご尤も」と言いたいが、しかし本当にそうであろうか?無条件な思いやりを持って相手や社会に貢献するとしても、相手が望んでなければやはり「うぬぼれ」ではないのか。鮨屋の彼だけでなく現代人のほとんどがうぬぼれている。だから彼の涙は無駄ではない。うぬぼれに気づきやっと他人への依存から解放され自由となったのである。その証拠に、「今、何も無い」のだから。承認を期待し努力することは、結果を伴わなくとも素晴らしいことだ。且つ自己の弱さを反省するのであれば、自己実現の入り口まで成長できているのではないか。自己実現とは承認欲求からうぬぼれを克服した次元から始まるのだろう。
それにしても、承認欲求について書こうと思うほどまだまだ筆者はその「うぬぼれ」が消えないらしい。
2024年11月29日
田村滋朗


