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承認欲求

  • FreeMe labs.
  • 7月6日
  • 読了時間: 4分

自己成長へ
自己成長へ

 誰しも寂しかったり楽しかったり、周りの人たちと過ごす日々の中で、人に認めてもらいながら社会生活をしている。認めてもらうことが最終的なゴールではないのだが、何故かそうやって忙しい日々である。心理学者アブラハム・マズローの5段階欲求で言えば、4段階目に承認欲求というレベルがある。承認欲求は英語ではEsteemといい、ApproveやAcceptと違い、自分の能力や性格を自分も含めて人から尊敬されたい欲望である。この欲求をクリアして最終5段階目の自己成長を達成するというのが、彼が提唱しているものだ。


 私は違うんだ。他人から評価されたい、尊敬されたい。別に他人のことは評価したくないが、自分で自分は特別な何かになり得るのではないかというきっかけがほしい。悪いことと知りながら、SNSで注目されたいために迷惑行為を投稿する。会社や学校で、ハッタリだけの自分と知りながら、自分を認めてないと思うとその人に精神的苦痛を与えたり仲間はずれにする。所謂、イジメやハラスメントだ。このような人たちは承認欲求が強いとは言わない。もともと尊敬に値しない、ただ無知で無能なだけだ。


 それより、タレントやら落語家が専門以外の最もらしい評論を昼のテレビ番組でしたり、「何事にも感謝を忘れるな。」といつも他人に強要したり、「私は最近怒りをマネージメントできる。」とところ構わず言ってみたり、笑顔で「いらしゃいませ、こんにちは。当店では、、、」自分の話優先で客の話は無視する接客をしたり、「この人達の思いを紡ぐ。」とか共感ぶった同情を被災地で報道したり、「あなたはもっとこうすべきだ。」と説教した挙げ句食事は奢ってもらったり、多くの人と自分を比較し、「私は人の気持ちがよく分る。みんなに寄り添える。あなたより特別な存在である。」そんな”うぬぼれ”が承認欲求と言えるのではないだろうか。周りの人からの共感を期待したり、善人と思われたい。また、うぬぼれ故に恥も知らない。自分の存在を他人に依存しているとも気づかない厄介な人生の登竜門なのかもしれない。


 彼の少年期は親や学校の先生から優等生と思われたかったり、バンドをやっていた頃はとにかく女性からかっこいいと思われたかったり、サラリーマンになってからは上司や取引先から信頼され認められそうなことばかり考えていた。表層ばかり追いかけて、学業や音楽や会社の仕事にはさほど身が入らなかったそうだ。鮨屋では珍しく赤ワインを飲む彼は笑いながら「これは自分の話なんですよ。情けない。」とうぬぼれに呆れている様子だった。思えば、50歳を過ぎた今になって中途半端な半世紀だったと話題をループさせながら長い話が続いた。自分の価値を自分で未だに分らない。「おまえの夢はいったい何だ?」と、彼は自分自身に問うと、言葉に詰まった。30秒くらい無言の時間があった。「昔は他人に依存していたとはいえ、具体的にあれこれ目標はあったと思うが、今はそれすらもない。虚しい。」下を向きながら水の中で目を開けたように視界が潤んだのか、大きな涙がカウンターに落ちた。「そんなバカな。そんなに悲しい話をしたいつもりではなかったはずなのに。俺は何をやってるんだ。」とおしぼりで涙を拭いた。彼はずーっと他人に依存してきた自分が情けなかった。少し飲み過ぎたか。大きな肩に手をやると、思いがけないことを語り始めた。「俺、これで少し自己成長できますかね?」


 哲学者マルティン・ハイデガーは、死を必然と運命づけられている人間は、他人との都合の良い関係を結ぶことで、生活に埋没し、気晴らしを楽しみ、時間を潰しながら生きているという。このような生き方は本来の人間らしくない生き方であり、ハイデガーはこれを頽落(たいらく)と表現し、これらの人々のことをダス・マン(世人)と呼んだ。つまり世人とは他人に依存した人生を送っている人々のことだ。言いたいことは分るが、とても辛辣な哲学である。しかし鮨屋の彼だけでなく現代人のほとんどが疑われる。だから彼の涙は無駄ではない。やっと他人への依存から解放され自由となったのである。その証拠に、「今、何も無い」のだから。ダス・マンからの承認を求めず頽落から這い上がったとき何か違う世界が見えそうだ。それが自己成長の一歩目なのであろう。


それにしても、承認欲求について書こうと思うほどまだまだ俺は承認欲求が強いらしい。


2024年11月29日

田村滋朗




 
 
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