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よかれと

  • FreeMe labs.
  • 2月25日
  • 読了時間: 4分

更新日:7月6日

無条件な道徳心
無条件な道徳心

 世の中にこれと言って正しいことなど見つからないのも分かるが、何が残念かというと他人に対してよかれと思って行動することだろう。相手に直接「よかれと思って」と言葉をかける場合は問題外だが、心の中だけでそう思っているときも、ほとんどの場合下心が見え隠れする。よくよく思い出してみると人生のすべての人間関係に当てはまりそうだと冷や汗が出てくる。自分自身の過去の人付き合いでそうで無かったDRYな関係など逆に今は思い出せない。


 ある風薫る夕方に街路樹が青々した通りのテラスでビールを飲んでいた。仕事も昼過ぎで一段落し、定時よりちょっと早い会社帰りで、開放感を感じていた。自分にとっては何よりも人生の良さを感じるひとときで、たまにこんな寄り道をする。連れもいないからこれといって集中することもなくボーッとしていたら、ひとつ隣のグループの話が耳に入ってきた。5人の中年男女がケーキを食べながら「怒り」について話をしている様だ。彼らは初対面の人もいて緊張した空気もあったが、そんな雰囲気をかき消すべくある女性が「どなたが何を話しても構いませんよ。」と会話を促すような笑顔を見せた。何かの会話サークルのようだ。少し風が通り抜けた後、ひとりの男性が「最近頭にきたことがあって、電車の中でお年寄りに席を譲ったんですよ。」と始めた。ふむふむ、きっと落ちはそうなるかなと思ってたとおりその老人はなにもお礼など言わず譲られた席に静かに座った。当然かのような堅い顔をしていたらしい。男の年配者に多いパターンだ。余談だが、それに引き替え女性は状況の把握力があり話し上手で、逆に無口なら身体の調子が悪いのかと心配させる雰囲気を持っている。「お礼の一言くらいあるべきだろう。」と怒りを感じ少しにらみつけながらこの男性は隣の車両に逃げたらしい。やっぱりお礼を言ってほしい、よかれと思い取った行動なのだから。「人は支え合って生きていく“べき“でしょう?」そう彼は笑顔を見せた。会話は笑いや頷きが雰囲気を柔らかくしその後どんな話になったのかはよく覚えていない。自分にも全く同じ経験あり、なんてことのない小さな出来事で、周りから見ればどちらかというと微笑ましいことなのに、その時は自分の偽善に悩んだ覚えがある。冗談ですが、やっぱり席を譲るなら、女性にすべきなのか?シニア男性は中身もないのにプライドが高いから。


 なぜ人は人間関係を大切にしようとするのか?それは真に道徳的な思想ではなく、単に人とのつながりを持っていた方が生物学的に得だからである。市橋伯一東大教授は「増えるものたちの進化生物学」という本で、他人との協力関係は子孫を増やすために「祖先から刷り込まれいる。」と紹介している。動物として群れをなす方が、他の危険から子孫を守れると言うことなのだろう。ひとりでは生きて行けないということなのか?「できる限りひとりでやっていく」を目標にしている自分にとっては、ちょっと残念ではあるが。


 あなたは本当に他人の幸福を望んでいますか? 競争社会を勝ち抜くために幼少期から他人より勉強ができるように、仕事ができるようになれば幸せになれると教え込まれ、ややもすると他人の失敗がうれしい自分もいるのに、いつから他人の幸せを本気で望めるようになったのか?資本主義競争社会のなかで人間関係は大切だとしても、本気で他人を思いやることはできるのであろうか?


 その答えは、哲学者イマヌエル・カントの定言命法にありそうだ。定言命法とは、条件や目的がない「~せよ。」という道徳心である。条件や目的がある道徳心「~ならば(~のために)、~せよ。」は仮言命法という。詳しくはここでは紹介できないが、定言命法は起因ゼロからの道徳心と考えられている。戦友を助けるために戦火に身を投じる兵士、ゾーンに入ったスポーツ選手、徹夜を厭わない芸術家。つまりその人の自由状態を意味している。良かった、純粋に相手に「よかれ」と思う心は、人の中に存在するみたいだ。ただいつも目的を考える悪い癖がつきまとうことも確かだろう。偽善とまでいかなくても、人は「自分はいい人でありたい。」という悲しい性もある。誰のための「よかれ」なのか、自分に問いかければ、あなたの本当の自由な道徳心が見えてくるでしょう。


2024年6月24日

田村滋朗

 
 
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