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母の他界

  • FreeMe labs.
  • 2月25日
  • 読了時間: 4分

更新日:7月6日

人の幸福をもとめて
人の幸福をもとめて

「母さんが亡くなりました。」一文だけのSMSメッセージを彼の兄が送ってきたのは、もうすぐ夏を感じさせる蒸し暑い6月中旬の昼過ぎだった。一ヶ月前に帰省した時に母に会い、具合が良くないことは知っていたから驚きはしなかった。簡単な旅支度をして帰省することにした。


 ある日、兄は認知症を患っている母の襟をつかんで引きずったことがあったらしい。理由は聞かなかったが、相当腹が立つことを母が平気でしてしまったようだ。その病気は無情にも人格を壊していく。母は「親に向かってなんてことをすーかね?」と泣きそうな声で訴えた。そんな話を聞くとやるせない。兄は続けた。「もう少し良くしてやれば良かった。悪いことをした。」と。死んでから謝っても。「生きていても認知症だったから、息子か他人かもわからない状態だったから」と少し慰めたかったが、彼は兄をひとりにしておいた。


 実家に帰ると、近所の老人が「おかあさんにはお世話になりました。」とお通夜前に香典を持ってきた。いつもなら喪主の兄が挨拶するのだが留守だったので、彼が預かった。「何歳だった?どうだった???」たくさんの質問が飛んできて、それなりに答えると、「若いな、自分より3歳年下だ。俺はほらこの通り問題なく元気だ。頭もしっかりしている。」と両腕を上下にしながら笑顔で答えた。悔やみに来たのかひやかしなのか?もっと話したそうだったが彼はこの老人のことも忙しい振りをして放っておいた。「ありがとうございました、お元気で何よりです。」と。


 会社の上司や同僚の親族が亡くなり、会ったこともない故人の通夜や葬儀に参列する社員たちを思い出しながら、彼は思った。人は身近な人が死んでも自分のことを見つめるんだなと。兄も近所の老人も、その社員たちとそう変わりなく自分のことを見つめる。故人のことを話しただけでは落ち着かない。反省したり、比較したり自分の気持ちの置き場所に忙しい。やはり人の死は周りの人にこれからの人生を意識させるものなのだろう。


 梅雨時の青空の下、葬儀が始まり、無宗教な彼も意味がわからない経本を片手に漢字とふりがなを追っかけた。和尚さんの遺族に対する優しい説教のあと、念仏と共に棺桶に花を入れる最後の別れの時がきた。母の最後の顔だと思うと、彼は急に涙が止まらない。古い農家に嫁ぎ奴隷のように働かされ、3人の子供を育て自分のことをあと回しにしながら生きてきた人生は本当に幸せだったのだろうか?現代人は自分のことが大切で大好きで、他の人よりも“得なことは何か?”いつも探している。社会では特別な存在になりたい。他の人に認められたい。そんな空気があたりまえなのに、彼の母は自分のことより周りの人を大切にする人だった。


 農作業が忙しい時期は、家に作業に来てくれる人たちにお茶やお菓子を出したり、夕方は煮物やお酒を出したり、自分も農作業でかなり疲れていただろうにそれでも人をもてなそうとする。少しでも労いたいと思ってやっている。文句ばかりの姑にいじめられて、泣いていたことも記憶にある。その祖母をあの世に行くまで実子たちより介護したのは母である。今思えば、少し富をもった周りの実子たちがお金を出し合えば、母がひとりで世話をしなくても良かっただろうに。どこかやるせない。動物にも優しくて、可愛いがって育てた子牛を出荷する朝は涙を隠すために遠回りして家まで帰ってきた。他にも父が事業に失敗した時の母の健気な夜なべなど、ここでは話切れないことばかりだ。こんな偶然嫁いだ田舎の生活に自ら関わって、嫌なことをすべて引き受けてきた。これといった報酬も賛辞もなく。


 哲学者ジャン・ポール・サルトルは、自分が偶然的実存から必然的存在となるために、「アンガジュマン」という自分だけでなく他人をも関わり合いにすることを提唱していた。(英語ではengagement。)他者を自己の存在条件とし、自分の自由と同時に他人の自由を望む。「他者の幸せは自分の幸せということ」以上に違いを認め共感する。サルトルの場合、それは当時の政治や社会に対しての思想であったようだが、母のそれは、無償の純粋な優しさから生まれた精神であったと思う。認知症で施設にいたことも理由ではあるが、サルトル同様、死ぬ時は一文なしだった。「他人に施すことで自分の自由を求めた幸せな一生だった。」と母が思っていてほしい、彼はそう願った。


2024年6月18日

田村滋朗



 
 
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